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豊臣政権は何故滅んだのか? ~世襲制における後継者決定システム~ [日本史・世界史関連]

現在大河ドラマ「江~女たちの戦国~」が放送されている。個人的にはキャストや脚本にツッコミたい点が山ほどあるが、今回はそれを省略したい。最近の放送では朝鮮出兵や千利休や豊臣秀次が切腹になる過程が描かれている。このあたりについて考えてみたい。


豊臣秀吉は1598年に病死する。その後豊臣政権は豊臣秀吉による独裁から、後継者である秀頼を五奉行・五大老が支える集団指導体制に変化する。しかし、その中で力を伸ばしていった徳川家康とあくまで豊臣政権の維持を目標とする石田三成の対立が激しくなり、1600年に関ヶ原の戦いが起こることになる。


賤ヶ岳の戦い(1583)での勝利で織田信長の後継者としての地盤を磐石にした豊臣秀吉だったが、小牧・長久手の戦い(1584)で戦略的には徳川家康に勝利したものの、徳川家康を滅ぼすことはできなかった。そこで豊臣秀吉は徳川家康に豊臣政権における一定の地位を与えた。その後九州平定(1587)、小田原城の戦い(1590)で北条氏を滅ぼし、奥州平定(1590)を実現したことで豊臣政権は名実ともに天下統一を実現させることになる。


さて、ここからが問題になる。それは後継者問題である。
1589年に生まれた長男鶴松は3歳で亡くなった。このとき秀吉は後継者として甥の豊臣秀次を指名した。しかし、1593年に秀頼が誕生すると、どうしても実子である秀頼を後継者としたかった秀吉は秀次を粛清する。


豊臣政権の滅亡・崩壊は次の3つがあると考える。
①最大のライバルである徳川家康を滅ぼすことができなかった
→反対勢力となりうる存在を残してしまった。
②朝鮮出兵に多くの大名が不満を持った
③後継者問題でもめた。後継者氏名していた秀次を粛清した


この3つは確実に豊臣政権の寿命を縮めたと考えてよいと思う。


この後継者問題というのは現代でも独裁国家だけではなく、民主主義国家でも亡くなった政治家の後継者(地盤を引き継ぐ人)や企業の経営者なんかでもめることがある。後継者問題というのは失敗すると会社を傾かせることすらある。代表的な例としてはダイエーや西武グループなどが挙げられるだろう。逆に成功例としては武田薬品工業や角川HDなんかが挙げられる。


もしも秀吉が秀次を後継者のままにし、朝鮮出兵なんかしなければ、もしかしたら関ヶ原の戦いすら起きる余地はなかったのかもしれない。
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坂本龍馬と薩長同盟~機能する同盟とは?~ [日本史・世界史関連]

28日に今年の大河ドラマ「龍馬伝」が龍馬暗殺事件をもって終了した。私も毎週見るようにしていたが、近年の大河ドラマの中でも名作と位置づけられるものになっていたと思う。


さて、坂本龍馬が行った業績の中で特に有名なのは「薩長同盟の成立」であろう。この薩長同盟が明治維新の枠組みになったことは私が書くまでもないだろう。しかし、この当事者である薩摩藩と長州藩は互いにいがみ合っていた。1863年の八月十八日の政変で薩摩藩と会津藩によって京都を追われた長州藩は尊皇攘夷派である孝明天皇を長州側へ得るために1864年に挙兵。いわゆる蛤御門の変(禁門の変)を起こす。しかし、またもや薩摩藩と会津藩によって敗北。長州藩は敗走することとなる。こののち第一次長州征討が行われ、長州藩は壊滅的打撃を受けることになる。このような経緯から薩摩藩と長州藩の対立は凄まじいものとなっていた。坂本龍馬はこのようにいがみ合っていた薩摩藩と長州藩を同盟させることで江戸幕府の時代を終わらせようとしたのである。


薩摩藩と長州藩の同盟であるが、実は歴史上もう1人薩摩と長州を結びつけようとした人物がいる。それは1600年関ヶ原の戦いで有名な石田三成である。石田三成は西軍(豊臣方)の総大将として毛利輝元をおいていた。また、そこには薩摩の島津義弘も出陣していた。この結果、西軍の兵力・布陣ともに東軍を圧倒していた。それを表すエピソードとして、明治時代に陸軍大学校の教官としてやってきた関ヶ原の戦いの布陣を見たドイツのクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐は「どっちが勝ったと思いますか?」と聞かれ「西軍が勝った」と述べている。たしかに、関ヶ原の戦いのときに西軍が全力で東軍に立ち向かっていれば歴史は変わったかもしれない。しかし、史実はそうではなかった。毛利輝元も島津義弘も動かなかったのだ。そもそも総大将は毛利輝元なのに、実際に合戦を仕切っていたのが石田三成であったことや豊臣秀頼自身が出陣してこないこと、淀殿の専横に対する不満などがあり、かなりの武将が様子見をしていたのだ。結果として合戦の大勢が東軍側になるまで毛利・島津とも戦場から撤退するまで動くことはなかった。


一方、坂本龍馬が行った薩長同盟のほうはいかなるものであったか。ここには1600年の「石田三成による薩長連携」とまた違った形が見える。たしかに「豊臣に逆らう徳川を倒すため」という石田三成の目標設定と「徳川幕府を打倒するため」という坂本龍馬の目標設定は同じ様なものである。しかし、坂本龍馬はここに薩長両者の経済的利益も付け加えた。具体的には薩摩名義で長州が仕入れた最新式の銃火器を長州へ送る代わりに長州藩は米を薩摩へ送った。薩摩は桜島の火山灰地質のため米があまり生産できなかったからだ。一方長州藩は第二次長州征討に向けて大量の武器弾薬を必要としていた。


そのような前提となる経済的な関係を結んだ上で薩長同盟の交渉は行われた。もちろん経済的に相互に必要な関係になったとはいえ、薩摩藩と長州藩の政治的な溝は簡単には埋まらなかっただろう。だから、両藩ともそこまで大きなかかわりがなく、なおかつ相互の経済的利益に貢献している人物である坂本龍馬が仲介人にとなれたのだと私は思う。坂本龍馬は薩長同盟のプレイヤーというよりはむしろプロデューサーだったといえるのではないだろうか。


私は同盟関係には「機能する同盟関係」と「機能しない同盟関係」があると考える。歴史上を見ても同盟条約が結ばれたのに何も機能しなかった同盟関係もあれば機能し、その国の戦略的勝利に貢献した同盟関係も存在する。これは何も戦国時代や幕末だけにいえることではない。現代の国際政治の現場においても言えることだと私は考えている。

「機能する同盟関係」をつくるためには①安全保障の戦略上統一された目標の設定(例えば「◯◯に対抗するため」「◯◯と△△を獲得するため」) ②長期的なおかつ場合によっては直接的な行動が求められるものに関しては経済的な関係を積極的に進めること ←以上2点が必要になってくると考える。

そう考えると日米安全保障条約や日本が今後検討することになるであろう他国(インドなど)との同盟関係を構築・強化するには単純な安全保障上の取り決めだけではなく、経済的な利益に関わる部分までやっていく必要があると私は考える。


薩長同盟の成立から私が見えてくるのは坂本龍馬の「機能する同盟を作るプロデューサーとしての手腕」なのだ。
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上尾事件~ブチ切れたサラリーマン達(1)~ [日本史・世界史関連]

こんばんわ。そうてんです。mixiでうろうろするのが最近のちょっとした暇つぶしです。

今回は上尾事件の話です。戦後、日本人はあまり暴動というものをやったことがありません。知られているのでいけば学生運動のときのデモくらいでしょう。このことは日本の政治経済や治安が安定している象徴であるといわれる一方で、日本人の政治的無関心・無行動と関連付けて非難される話にもなります。

では、日本人は学生運動以外で暴動をやったことがないのかといえばそういうわけではありません。その1つといえるのがこの上尾事件です。この事件は国鉄の分割民営化とも関わりがないわけでもないので、興味のある方はどうぞ。

事件は1973年3月13日におきました。いちおう時代背景を説明しておくと、学生運動自体はすでに下火になっており、1972年のあさま山荘事件が起きて以降はほぼ鎮静化しています。ちなみに1973年の総理大臣はあの田中角栄です。

1970年代の国鉄では労働闘争が頻発していました。しかし、公共企業体職員である国鉄の労働組合員による争議行為は公共企業体等労働関係法(公労法)により禁止されていました。なお、この公労法は2002年に『特定独立行政法人等の労働関係に関する法律』となっています。そこで、国鉄の代表的労働組合であった国鉄労働組合(国労)国鉄動力車労働組合(動労)が考え出したのが順法闘争でした。

順法闘争というのは法や規則を厳密に守って運行するやり方です。これは一見すると当然のように思われますが、例えば何も落ちていないのに「線路に不審なものが落ちているのが見えた。」という理由で電車を止めたり、規定のスピードを必要以上に厳密に守ったりすることです。すると、込んでいる道路で制限速度を守って運転すれば後ろが渋滞してしまうのと同じ状態が鉄道で発生します。つまり、ダイヤがものすごい乱れるわけです。

この当時、第一次ベビーブーム世代が働き盛りで都市は過密状態で、郊外に移り住む人が増えていました。すると、当然そういう人はみんな鉄道を使って首都圏へ通勤・通学するわけで朝夕の混雑は今とは比較にならないくらいすさまじいものでした。当時の鉄道の輸送力では限界がきていました。もはや規則を守っていてはその当時の輸送力を維持することは不可能であり、スピードを必要以上に出したりというのは日常茶飯事でした。そこを労働組合が目をつけ、たびたび順法闘争を行ったわけです。このため、首都圏の鉄道輸送力は崩壊寸前でした。

一方、鉄道利用者にとっては公式なストライキの場合は欠席や欠勤が認められるのですが、順法闘争は公式なストライキではないため、欠席や欠勤が認められませんでした。そして殺人的なレベルの混雑が続く中で空気の読めない労働組合は順法闘争をするわけですから、利用者の不満や怒りは募る一方でした。一方で労働組合側は学生運動時代には比較的労働闘争が国民から容認されていたことから、「自分たちは国民の支持を受けている」という意識があり、鉄道利用者が迷惑を被っていることなど「そんなの関係ねぇ!」状態でした。そんな中でおきたのが上尾事件です。

1973年3月13日。この日も組合は順法闘争を行っており、高崎線籠原発上野駅行き上り普通列車は14分遅れの7:20に上尾駅1番ホームに入りました。上りホームはすでに3000人以上の人でごった返しており、列車に乗りきれない利用者も多く、この普通列車は発車できない状態になっていました。そこで、駅側は改札制限を行っていたわけですが、そんな中で前橋駅発上野駅行きの上り電車が2番線にはいったのです。こちらも超満員でもはやはいることができません。あまりの混乱ぶりに国鉄側はこの1番線と2番線にはいっている列車の2駅先の大宮駅で運行を打ち切る決定を構内放送で流します。

すでに超満員の列車やホームにいた人たちはついにブチ切れました。なんせ順法闘争では欠勤や欠席が認められないのですから。しかも、これは事故が原因ではなく、順法闘争という人為的なものが原因だったのですから。

一部の人が運転手や車掌に詰めより、さらに数名が線路上に降りて車両に投石を開始。ガラスが割れる音を聞いた車両内の乗客もこの騒ぎに参加し始めました。運転手は殺気立った乗客たちに恐怖し、業務を放棄して上尾駅の駅長室に逃げ込みます。

このため、列車の運行が完全にストップしたことで、その場にいた1万人以上の乗客達は完全に暴徒と化しました。駅長室に突入し、駅長をハンマーで殴ったのをはじめ(駅長は救急車で病院に搬送。全治5日間の軽傷)、上尾駅にはいっていた他の車両にも投石などの破壊行動をはじめ、さらには上尾駅に入れず、300m手前で停車していた特急とき2号に対しても投石が行われ、さらには事務室にあった現金20万円以上が盗まれるなどもはや鎮静化が不可能な状態になっていました。これに対し、埼玉県警は機動隊を派遣しましたが、550人という人数では数的に劣勢であり、暴徒をけん制する意味合いしかもちませんでした。

この騒ぎは上尾駅にとどまらず、高崎線沿線の桶川駅や熊谷駅、東北本線内の埼玉県の駅にまで拡大し、それがさらに混乱に拍車をかけ、上尾駅周辺はおよそ11時間にわたって全線不通となりました。なお、この事件での逮捕者は7人しかおらず、金銭を盗んだものや取材に来ていた新聞記者を暴行した者などでした。

この事件の背景としては、当時、上尾駅や桶川駅周辺はベットタウン化が進んでおり、日本住宅公団によってかなりの数の団地が形成され、人口がかなり増加していました。また、鉄道利用者が日ごろから国鉄職員の態度や度重なる順法闘争にかなりの不満をもっていたこと、この当時の働き盛りのサラリーマン達が安保闘争や学生運動で多くの人がデモに参加し、機動隊と殴り合った経験を持っていたことでかなり暴動になれていたこと、機動隊も威嚇射撃などの強硬策を講じえなかったことがあると考えられています。

この翌日、機動隊は朝から上尾駅周辺を警備し、再度の暴動発生を未然に防ごうとしましたが、そこにはすでにいつもの満員電車の風景が戻っており、そこには前日の暴動がまるで嘘のような日常風景がありました。もちろん駅利用者の中には前日の暴動参加者もいたでしょうが、みんな日常生活に戻っていました。

この事件により、組合員も負傷する結果となった国労や動労は順法闘争を中止しますが、一部の組合員は「この事件は権力者側が扇動して起こしたものだ。」として順法闘争を再開。これがまた暴動を起こすことになります。

組合側は「国民の支持は我らにあり。」と思って順法闘争を繰り返していたのですが、あまりにも繰り返される順法闘争、そして日々の混雑によって利用者の怒りは蓄積していたわけです。

せっかくなので今日(11月10日土曜日)の午後にでもこの一カ月後に起こった別の暴動事件も紹介しようと思います。これ以上長くなると皆さんも読むのが疲れるでしょうからww

それではまたノシ


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三無事件~幻の自衛隊クーデター計画?~ [日本史・世界史関連]

こんばんわ。そうてんです。

今回は三無(さんゆう)事件の話です。

この事件は教科書どころか、テレビでもあまり報道されない話ですが、一説には「自衛隊のクーデター計画」とさえいわれています。実は戦後いくつかの時期に自衛隊のクーデター計画があったのでは、といわれています。そのうちの1つがこの三無事件です。これを取りあげた理由にはもちろんブログのネタ不足もありますが、何よりも自衛隊の存在が様々な面で注目されている今だからこそ、この事件を振り返ってみてもいいのではないかと考えています。

事件は1961年12月に起こりました。1961年は前年に岸内閣が安保条約改定に絡む混乱の責任をとって総辞職し、池田内閣が成立しており、いわゆる60年代安保闘争の最盛期でした。

そんな1961年6月。UPI通信が「およそ12人の陸上自衛隊少壮将校による政府転覆を狙った”東京クーデター”陰謀が、自衛隊当局により摘発された」と報じ、外務省と防衛庁はこれを否定し、厳しく抗議しました。それから半年後の12月12日。警視庁公安部は東京都新宿区須賀町のビルなど二か所と福岡県内の一か所を一斉捜索すると、そこからは自衛隊の作業衣、戦闘帽99点、鉄カブト300個、米海軍用ガスマスク150個、投弾練習用の手榴弾1個などが押収されました。そこで発覚したのがクーデター計画「三無」でした。

三無とは老子の「無は有に転ず。」という思想から「さんむ」ではなく「さんゆう」と読まれます。その具体的な主張は次のようなものです。
①無税:官公庁の大幅人員削減による財政収縮と公社公団の民営化
②無失業:大規模な公共事業における失業者吸収
③無戦争:ミサイルや宇宙兵器の開発による外国からの侵略の阻止

これを見て驚かされるのは①は小泉政権が21世紀にはいってやったことですし、③は1961年4月にソ連のガガーリンが人類で初めて宇宙にあがったばかりであり、宇宙兵器の開発が考えられ始めたのがつい最近である、という点でこの三無の考え方はかなり先進的だったといえるでしょう。

この参加メンバーは前年の安保闘争で共産主義・左翼主義的な勢力や政治家の力が増したこと、また与党内にも容共的な政治家がいることに危機感を抱き、彼らを粛清しようと考えたようです。その計画は①開会中の国会を占拠し、総選挙を実施②閣僚を監禁し、逃走した者は射殺③報道管制の実施④自衛隊に中立を呼びかけ⑤戒厳令をしき、臨時政府を樹立するというものでした。

主犯格は川南豊作(当時59歳)。戦前、三菱造船をしのぐほどの造船会社を持っていた戦争成金で、戦後の公職追放で没落した人物です。主要メンバーとしては元陸軍少将・桜井徳太郎(当時64歳)、陸軍士官学校卒・元陸軍将校の小池一臣(当時34歳)、本土防空戦で勇名をとどろかせた342航空隊の戦闘機のパイロットであった篠田英悟(当時38歳)など旧日本軍関係者の名前が多く出てきました。また武器の調達先としては韓国の大物実業家・康烱吉、韓国陸軍少将・朴林垣、中国の実業家・李樹森の名前が上がり、接触があったものの名前にはノモンハン事件での指揮で『作戦の神様』といわれ、当時国会議員だった辻政信や航空機の専門家として真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の作戦立案にも関わった源田実(61年当時・航空幕僚長)、さらには現職の陸将補や大隊長がいたといわれています。

三無計画のメンバーは銃刀法違反や殺人予備罪などで逮捕された後、成立後初めて破壊活動防止法(破防法)によって有罪とされました。また、当時、防衛庁は「自衛隊員の賛同者はいなかった。」としながらも接触のあった自衛官の多くが左遷されました。

さて、この事件はよく考えればクーデターをやるには武装が貧弱であり、計画もずさんそのものです。ですが、この事件に関してはいまだに防衛庁、現在の防衛省は口を閉ざしています。つまり、どのような役職のものにクーデター計画への参加が呼びかけられていたのか、また、どこからクーデター計画の情報がきたのか、という話です。一番有力なのは、メンバーがかなりの自衛隊幹部に声をかけていたから発覚したという話から中には池田首相に大物右翼関係者(児玉誉士夫?)からの密告があったとも言われています。

私は政治的な話ではなく、むしろ歴史の出来事の1つとしてこの事件の概要や、どのような政治家・自衛官が関わっていたのかという話に興味がありますね。恐らく明かされることのない事実があるのかもしれませんが、知ってていい話だと思いますね。


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沖縄・集団自決の歴史解釈問題 [日本史・世界史関連]

こんばんわ。そうてんです。

さて、29日に沖縄で太平洋戦争末期の沖縄戦で起きた住民の集団自決を巡る文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会が開かれました。

この文部科学省の教科書検定意見とは来春から使われる高校用の日本史教科書で沖縄戦での集団自決について、従来認めていた日本軍が集団自決を強要したという記述が『沖縄戦の実態について誤解を与える恐れがある。』という検定意見がついたそうです。

さて、ここで重要になるのは「本当に日本軍が集団自決を強要したのかどうか。」という問題です。なんか様々な証言者が出ていますが、この証言者たちが事実を言っているかどうかはまるでわかりません。それは肯定派、否定派ともにです。正式な命令文などが出てくれば話は別ですが、従軍慰安婦問題と違って完全な戦場の中での話なので命令書が残っているというのは考えにくいです。

沖縄戦での集団自決が果たして日本軍からの命令であったのかどうか。これこそもはや歴史の闇であるとしかいいようがありません。ですが、教科書で教育の場で教える場合には肯定派・否定派双方の意見を載せるのが一番なのでしょう。そういう意味では新しい教科書のように、どちらにも解釈できるような言葉を文言を載せるのではなく、肯定派・否定派双方の意見を同じ分量で載せるのが一番なのではないでしょうか。

曖昧に記述するのはどちらかの意見に偏った記述をするのと同じくらい悪いものだと私は思います。


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米下院 従軍慰安婦決議を採択 [日本史・世界史関連]

米下院は30日の本会議で、従軍慰安婦問題について日本政府が歴史的責任を認め、公式に謝罪するよう求める決議を採択した。同様の決議案は01年から4回提出され、いずれも廃案になっていたが、民主党主導の議会で安倍首相の発言に対する反発が広がり、初めて本会議で採択された。法的拘束力はないものの、採択の回避に向け、訪米の際に米議会幹部に直接説明し、「理解していただいた」とする首相にとって更なる痛手になりそうだ。

 下院外交委員会は6月26日に39対2の大差で決議案を可決。本会議でも3分の2以上の賛成が見込まれたことから、今回の採決は発声投票で行われた。出席議員から異議は出なかった。

 決議は、「旧日本軍が若い女性に性的な奴隷状態を強制した歴史的な責任」を日本政府が「明確な形で公式に」認め、日本の首相が謝罪声明を出すよう求める内容。1月末に日系のマイク・ホンダ議員(民主)が提出した。

 日本政府は「これまで謝罪しており、決議案は不必要で、事実と異なる」と訴えた。だが、安倍首相は3月1日、軍当局の関与と「強制性」を認めた93年の「河野官房長官談話」に関連して「強制性を裏付ける証拠がなかったのは事実ではないか。定義が変わったことを前提に考えなければならない」と発言。自民党内に河野談話を見直す動きもあり、従来の日本政府の謝罪に留保をつけ、修正しようとする発言と受け取られた。

 決議案の共同提案者は下院(定数435)のうち民主、共和両党の167人に達した。そのうち142人は安倍首相の3月1日の発言後に共同提案者となっている。安倍首相は4月下旬の訪米時にペロシ下院議長(民主)やブッシュ大統領らを前に謝罪を表明。一時は沈静化したが、日本の国会議員らが6月14日付の米紙ワシントン・ポストに、決議案は「現実の意図的な歪曲(わいきょく)だ」とする意見広告を出し、議会内の反発が再燃した。

 ホンダ議員は30日、決議の採択後に議会内で会見し、「この決議は日本の人々を責めているのではない。日本政府の過去に対する姿勢の問題だ。安倍首相が私たちの言葉に耳を傾けることを期待している」と語った。

 下院指導部は参院選への影響を避けるため、本会議採決を選挙後に先送りし、日程の公表も投開票後にするなど配慮を見せていた。日米関係への悪影響を懸念する声もあり、31日の下院外交委員会では日米同盟の重要性を評価する決議案も採決される予定だ。 (asahi.comより引用)

あはははは・・・米下院に正義とかそういうのはなかったようだねwwwwww

しかも、申し訳程度に日米同盟の重要性を評価する決議案だなんて採択されても逆に腹が立つだけです。いっそ尖閣諸島と竹島が日本の領土であると認める決議案くらいじゃないとプラスマイナスゼロにはできませんww

日本の過去に対する姿勢を問題視するならば、日本は対抗措置として広島・長崎への原爆投下や日本各地へのB29による空襲、さらには戦後の駐留米軍による各種犯罪などに対する米国の姿勢も問題視すべきではないでしょうか。

よく『強制力はないし、日米同盟に悪影響を与えてはならない。ここは無視すべき。』という論者もいます。ですが、それでは日本はただ謝罪したくないからだだをこねている国にしか見えません。ここは、日本の首相が直々に「従軍慰安婦なぞなかった。」という事実に基づいた反論を公式にし、河野談話などを全面撤回すべきだと思います。もちろんこの場合は河野氏を衆院議長などから罷免する必要が出てきます。さらに米国に対し、広島・長崎に対する原爆投下という非人道的行為を非難する決議をすべきだと思います。

これは中国の反日活動団体によるロビー活動が原因ですが、逆にロビー活動程度でこのような決議が採択されてしまうのだから米国はあまり信用できないかもしれません。安倍首相も小沢代表も結局は日本の防衛の大部分が米国任せであることに主張はかわりありません。ならば、参院で民主党が第一党となった今、どちらかが『自主防衛・自主外交』を主張してもいいころなんじゃないでしょうか。とにかく、安倍首相のこの決議に対する対応に注目です。


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原爆問題に油をかけた米国 [日本史・世界史関連]

こんばんわ。右手首が痛いので、キーのうち間違いの多いそうてんです。

「原爆、戦争終結に役立った」=改めて正当性強調-米高官

米政府のジョゼフ核不拡散担当特使(前国務次官)は3日行った記者会見で、米軍による広島、長崎への原爆投下に関し「日本人数百万人の犠牲をさらに出すところだった戦争を終結させたという点で大半の歴史家の見解が一致するだろう」と述べ、改めて正当性を強調した。
 ジョゼフ氏は、原子力平和利用に向けた米ロ両国の協力に関する記者会見で発言したもので、「米国は長崎と広島に原爆を落として、多数の市民の命を奪った。これは技術の無責任な利用ではなかったか」との指摘に答えた。

 

 

久間氏の辞任で終わるかと思った原爆に関する話が一気に日米間の歴史問題に発展しちゃいそうな発言です。

 

 前もこのブログでお話しましたが、日本政府は沖縄の陥落が確定した6月下旬の時点ですでに講和の意思を示していました。もし、米国がこれに応じていれば、米国はかなり講和の内容を有利にすることができましたし、広島・長崎に原爆を落とす必要もなかったでしょう。にもかかわらず、米国はそれを無視し、広島・長崎に原爆を投下しました。ですから、このジョゼフ氏の述べたことは事実に基づいていないと断言できます。こういう人物が米国の核不拡散担当特使である時点で米国が核兵器廃絶なんてことを考えていないことがよくわかると思います。

 

しかし、このジョセフ氏に「米国は長崎と広島に原爆を落として、多数の市民の命を奪った。これは技術の無責任な利用ではなかったか」と質問した記者は日本でこういうことが起こっていることを知っていてこういう質問をしたんでしょうね。何処の国の記者かはわかりませんがタイガーウッズに『石川遼くんを知っていますか?』と聞いたどっかの記者とは違っていい仕事してますねw

 

さて、火に油を注いでしまった米国に対し、日本はどうするのでしょうか。久間を辞任にまで追い込んだ公明党や核兵器廃絶団体ももちろんアメリカを非難するでしょう。安倍首相も従軍慰安婦問題では完全にアメリカに謝罪する立場になっていたのだから、今回は攻勢に出てもいいと思います。また、国会でも『米国の広島・長崎への原爆投下に対する非難決議』を採択してはいかがでしょうか。アメリカが新型兵器の実験のためだけに日本に原爆を投下した事実を忘れてはならないと思います。


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防衛大臣は原爆投下という虐殺を容認している! [日本史・世界史関連]

こんにちわ。傷口が日々痛いそうてんです。なんか眠いし(ぇ

米の原爆投下「しょうがない」=ソ連参戦防ぐため-久間防衛相
久間章生防衛相は30日午前、千葉県柏市の麗澤大学で講演し、米国の広島、長崎への原子爆弾投下が日本の無条件降伏につながり、ソ連の北海道侵略・占領を防いだと指摘した上で「(原爆で)本当に無数の人が悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で今しょうがないなと思っている」と述べた。
 久間氏は長崎県出身。原爆投下を一定評価した発言ともとれるだけに、波紋を広げそうだ。
 久間氏は当時の戦況について「(米国は)日本が負けると分かっているのに、あえて原子爆弾を広島と長崎に落とした。そこまでやったら日本も降参し、ソ連の参戦を止めることができるということだった」と説明した。 

民主のネクスト法務大臣がバカだと思ってたら自民党にもいましたよ。それも現役の防衛大臣に(笑  

最初に言っておきますが日本は沖縄陥落以降、米国に対してソ連経由で講和の意思を伝えています。もちろん、この事実をホワイトハウスはソ連経由ではいってくる以前に知っていました。だから、米国の広島・長崎への原爆投下が日本の無条件降伏につながったというのはアメリカ側の話を丸呑みしているだけなのです。

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亡霊のように復活した従軍慰安婦問題 [日本史・世界史関連]

こんにちわ。そうてんです。GW中は近所でDVD借りてきてダラダラと見てすごします。

さて、民主党が上下両院の過半数を押えた途端にあの従軍慰安婦問題が再燃しました。再燃させたのは民主党下院議員のマイク・ホンダ氏です。彼が米国下院議会に従軍慰安婦に対する謝罪を求める非難決議案を提出したからです。

そもそも、従軍慰安婦という言葉について調べてみると、この言葉が始めて世の中に登場したのは1973年千田夏光の著書『従軍慰安婦』(双葉社刊)の影響で、戦時中から使われた言葉ではないそうです。その後、1991年に韓国で初めて元慰安婦だったと証言する金学順氏が現れると一気に問題となり、ついに1993年当時の宮沢内閣の官房長官であった河野洋平氏が日本軍による慰安婦の強制連行があったことを認めるいわゆる河野談話が発表されました。どうやらマイク・ホンダ氏が非難決議案を提出した根拠もこの河野談話にあるようです。

では、この河野談話とはどういう内容なのか? 下に載せてみました。

いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。 (外務省HPより引用)

さて、この文章はよ~く読むと、あれ?と思う点が出てきます。それはどこにも明確には強制連行したのは旧日本軍とは書いていないのです。つまり、この文章は曖昧すぎてどういうふうにも読み取ることができるのです。特に河野談話中の赤字部分。ここにある文章が全文中の中でもっとも曖昧である。小林よしのり氏の著作「戦争論」にも書かれていることであるが、この部分は朝鮮の人々を日本軍が業者を使って強制連行したとも日本軍の要請を受けた業者が勝手に朝鮮の女性をだまして連れて行ったとも両方にとることができるのです。これは明らかに従軍慰安婦問題から一時的に逃げるための政治的パフォーマンスにしか見えません

そもそも、世の中で言われる「慰安婦」というものはどこの国の軍隊にも存在しました。それを無視して「慰安婦は軍隊による女性の奴隷化だ」と叫ばれても困ります。しかも、当時、日本も朝鮮もかなり貧しい状況でした。そういう中では生きていくためには性を売り物にして生きていかなくてはならない女性たちも存在したことでしょう。実際、日本軍は慰安婦を集めていました。ですが、当時の日本兵は農村の次男、三男が多かったのでいわゆる慰安所で行為に及べる日本兵は数少なかったそうです。風俗店で遊べる収入がない連中が多かった、とでも考えてください。

その後、元慰安婦と呼ばれる人々の証言に当時の日本軍や中国大陸、満州国の状況と照らし合わせての矛盾点が明らかになり、朝日を中心とするマスコミもトーンダウンしてきました。そして今回の米国の非難決議案にいたるわけです。

では、なぜ今になって、このマイク・ホンダという下院議員は従軍慰安婦問題に関する非難決議案を提出したのか。それは彼の選挙区がカリフォルニア州にあることと関係があります。カリフォルニア州には多くの韓国系米国人が住んでいます。つまり、韓国系米国人に地盤を作ることが狙い、と考えて間違いないでしょう。

とはいえ、今回の非難決議案の提出の責任は日本政府にあると考えています。問題を大きくしたくがないために証拠も見つかっていないことを謝罪し、日本という国家を貶めたことは許されません。日本政府は従軍慰安婦問題自体が捏造であり、証拠がないことを国際社会に示すべきだと思います。


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日本がたった一度だけアメリカに勝った日 [日本史・世界史関連]

明日は歴史上何があった日か、というのは言うまでも無いかもしれません。しかし、最近は知らない若者も多いそうですね。

1941年12月8日 真珠湾攻撃の日です。

いちおう説明しますと、11月26日に択捉島・単冠湾を出港した日本海軍機動部隊が12月8日にアメリカ太平洋艦隊の根拠地であるハワイ・真珠湾を奇襲攻撃したものです。

攻撃自体は成功したものの、当初の目的であった米空母3隻は輸送任務についていたために被害を与える事はできませんでした。また、宣戦布告が在米日本大使館の不手際により、攻撃から2時間以上たってから行われ、結果としてアメリカを怒らせる結果になったということもあります。

最近では『真珠湾攻撃をアメリカは知っていた』などの陰謀論も囁かれておりますが、私はこの真珠湾攻撃は誰が何を言おうと日本が歴史上で唯一アメリカに勝った瞬間だと思います。

日本が黒船来航によって開国させられてから今までの中で日本がアメリカに勝ったのは1941年12月から1942年6月3日(ミッドウェー海戦)までではないでしょうか。

当時、有色人種を『動物と同じようなもの』と見下していたアメリカにとって、米海軍の根拠地である真珠湾を、その有色人種の乗る航空機によって攻撃されたという事実はどれほどの衝撃だったでしょうか。

だからこそ、戦争末期に日本はこれでもか、というほどぼろくそに攻撃され、最後の最後には原子爆弾まで投下されたのです。

では、真珠湾攻撃は果たして無駄だったのでしょうか。私はそうは思いません。

真珠湾攻撃によってアジア・アフリカ諸国は有色人種でも白人に勝てるということを知ったのです。そして、戦後。アジア・アフリカ諸国は各地で独立戦争を展開し、独立を勝ち取っていったのです。

では、日本はどうでしょうか。

現在、日本は全ての防衛をアメリカにまかせっきりです。国民を拉致されても、その国と戦争しようとする覚悟すらありません。そしてみんな「どうせアメリカが攻撃してくれる」と思っています。かつて日本は米国とどれだけ交渉しても最低限の条件すら認めてくれず、最後の最後に『ハルノート』という日本への自殺申告書を突きつけてきたのです。そこでやむを得ず、真珠湾攻撃に踏み切ったのです。

日本は戦力を揃え、北朝鮮を攻撃する覚悟を固めるべきではないでしょうか。そこまでの覚悟が無ければ、拉致被害者を奪還するなど無理だと思います。


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